特別企画|房総里見氏を物語で読む
夢酔藤山さんの未公開作、里見義豊を描いた小説『賢使君』を掲載させて頂きます。
夢酔藤山さんから館山・南房総マガジンへ提供いただいた『賢使君―里見義豊―』を、全5篇まとめて全文掲載します!
主人公は、安房里見氏の当主となる里見義豊です。学問に秀で、「一統」という新しい国の形を思い描く若者と、在地の人々との協調を重んじる父・義通や叔父・実堯。鶴谷八幡宮の修繕から稲村城へ、理想と現実の隔たりが少しずつ姿を現していきます。
読む前に知っておきたい時代と場所
物語が描くのは、永正4年(1507)の鶴谷八幡宮修繕から、大永4年(1524)に義通が亡くなるまで。各地の武将が地域の支配を固めていった戦国時代前期です。当時の安房国は、現在の館山市・南房総市など、房総半島南部にあたります。
物語冒頭の鶴谷八幡宮は、現在の館山市八幡にある安房国の総社です。義通・義豊の拠点となる稲村城跡は館山市稲、JR内房線九重駅の西側に残っています。さらに、物語に登場する久留里城は現在の君津市久留里にあります。里見氏が安房の支配を固め、上総へ勢力を広げていく時代だと押さえておくと、義豊が掲げる「一統」と、父たちが重んじる「協調」の違いがつかみやすくなります。
作品について:本作は歴史資料を背景にした小説であり、作中の会話、人物の内面、場面描写には作者の創作が含まれます。
夢酔藤山『賢使君―里見義豊―』
胎動篇
ここにひとつの社が鎮座する。安房国安房郡北条郷八幡、安房国総社で鶴谷八幡宮と呼ばれる。かつて、安房国府の置かれていた三芳から遷座されたのが鎌倉時代初期のこと。以来、この地に在って武士の八幡信仰に支えられてきた。鶴谷八幡宮の造りは、鎌倉鶴岡八幡宮に似ている。すなわち海に向けて直線の参道が開かれていた。
里見氏は鶴谷八幡宮大檀那という地位を確立していた。それは、安房国主もしくはそれに相当する、という意味を持つ。つまり里見氏は、安房国へ侵攻したのち、誰も無視することのできない存在へと成長していたのである。
当主・里見上総介義通は、その大檀那として、長き戦乱で荒れ果てた鶴谷八幡宮の修復に乗り出そうとしていた。
「これは殊勝なる仕儀にて、八幡大菩薩の御加護が大殿を御守りします」
那古寺住職・義秀は、稲村城まで義通を訪れて、鶴谷八幡宮の修復の謝辞を述べながら
「足利家のこと」
を語り合った。
そもそもこの那古寺は、鶴谷八幡宮の別当寺にあたり、更には鶴岡八幡宮別当雪下殿にも属している。雪下殿は足利家縁故の者が住持として入ることが古来よりの慣習だ。そして、そのことは、宗門により那古寺が鎌倉と密接であることを暗に意味していた。
那古寺二一世別当・義秀は、里見義通の実弟である。
「小田原を奪いし伊勢宗瑞なる男、相模の人心を籠絡し、次々と臣下となす者にて、油断あるまじき仕儀であると、雪下殿では警戒してござります」
「鎌倉別当殿も憂いてござろう」
「はい」
「おいたわしき限りだわ」
雪下殿の別当・空然は古河公方・足利政氏の子である。惣領でないため、早くから若宮別当に据えられていた。
「空然殿と申す御方、なかなかのご気性と聞く。古河公方家に嫡子として生まれたなら、ひとかどのお働きを為されたであろうのう」
「滅多なことを!」
義秀は窘めた。そして、ふたりは笑った。
「お話は楽しそうですな」
末弟の里見左衛門佐実堯がやってきた。
「首尾は?」
「上々に」
義通に命により、実堯は古河公方・足利政氏を訪ねてきた。大した用などない、ようは足利家の現状を知るためである。
安房という地形は、内房では鋸山の国境が難所となり、外房は世上不穏である。陸路では不自由な古河との行き来も、里見水軍を掌握する実堯にとっては造作もない。義通が内政を充実する政策に没頭できるのも、偏にこの弟あってのことである。
表裏の定まった一族は、結束が堅い。いまの里見氏は、創業の季節ただなかにある。実堯の古河行きは、近々執り行う鶴谷八幡宮修繕の棟札に、古河公方の名を冠するための折衝も含まれていた。このように勢力を拡大しようと尽力する者の傍らで、義秀は次の世代を、ふと思った。
「ところで、若殿はいかがでござるか」
義秀の問いに、義通はやや云い辛そうに
「大昌寺に」
「おお、楽山和尚のところへ」
「あれは些か現実を見ようとはしておらぬ。学問好きなのはよいのだが……」
「噂には聞いておりましたが……」
「次の当主ともなれば、やはり民を懐柔し、その意を汲み取りながら、富ませるための生産に力を注ぐという修行が必要である」
「あの齢で、些か難しいことでは?」
「そうじゃ。学問は心の驕りを捨てるためにも必要であるが、まずは弓取ってこその武士である。あやつめ、武術は嫌いのようでな、いやはや、困ったものでござる」
「若殿も大殿の御子にござれば、きっかけ次第かと」
「ならば、よいが」
ここで話題となっている若殿は、義通の嫡子・太郎義豊である。すでに元服も済ませているが初陣の機会に恵まれず、僧籍の師に学を求める日々を繰り返していた。学識深い片鱗をみせ、巷では〈神童〉と囁かれていた。
永正四年(1507)、いよいよ鶴谷八幡宮の修繕が始まった。一世一代の大普請である。民衆は挙ってこの普請に関わった。聖俗問わず、安房国総社としての一大事業だ。里見義通は日に一度は、必ず普請場へ顔を出して、人足一人ひとりへと声をかける心懸けを怠らなかった。このような気配りは、作業に従事するものにとっても勿体ないことであった。
「隼人よ、時間を費やしてもよい、いい仕事をしておくれ」
義通がたびたび大工頭の隼人佐家吉に声を掛けるときに、必ず云うのがこの言葉だ。大工としては発憤させられる言葉である。そう云われれば、やはり素早く荘厳華麗なものを造り上げたくなのが人の心といえよう。その直後に、きちんと正す者がいた。
「大殿は優しく皆に申すがな、さほどにのんびりとしては困るぞ。この社には源氏の守り神が鎮座しておられる。早く落ち着かれて欲しいと、大殿は真摯に願っておる」
この普請の直接采配する奉行の任を負うのが、この正木大膳亮通綱である。里見氏より重宝の臣よと重んじられる彼は、優秀な官吏として力を発揮した。内政のみならず外交・合戦に至るまで、まさに軍師ともいえる、義通秘蔵の知恵袋だ。
「大殿は優しく申すが、遅れると困るのも大殿じゃぞ?」
厳しいことを口にする役目は、まさに正木通綱の仕事だ。そして、ときおり酒を運んで労うことも忘れていない。飴と鞭を巧みに使い分けていた。
この年、二六歳の里見実堯に男子が誕生した。
「普請のさなかに生まれるとは、この子は里見のために何事かを益なす者となろう」
里見義通は大喜びでこれを称えた。里見氏庶流の子である以上、いずれは主家のために力を尽くして欲しいというのが義通の願いであったし、父である実堯もまた、己の如く主家へ一層の忠勤を励む者に成長することを祈らずにはいられなかった。この子供こそ、のちの里見義堯である。
永正五年(1508)九月二五日、鶴岡八幡宮は修繕を終え、その神事が執り行われた。古河公方家からは足利家宰ともいえる簗田政助が足を運び、鎌倉からは玉隠英璵が列席した。この鶴谷八幡宮修繕は古河公方のために祈願するものであり、ひいてはその名代としての立場を安房に宣言したことを意味する。
慧眼篇
この日、里見義豊はじっと玉隠英璵をみつめていた。
玉隠という僧侶は、高齢でありながらも足腰の丈夫な人物で、建長寺の住職も務めた人物である。戦乱による鎌倉の荒廃を憂い、関東管領上杉氏や古河公方に厚く帰依され、復興に尽力する徳の高い僧侶だ。かの太田道灌からも、厚く信奉されていたという。
(このような人物と親しくなりたいものだ)
里見太郎義豊は神事が終わると、臆することなく玉隠英璵の面前に進み出た。
「己は未熟者にござります。いま一層の学を極めたく存じます。適いますれば、暫し教えを乞い願いたく候」
大声で、鎌倉へ引き上げるその袖に縋りついた。
「こら、太郎。御坊は多忙の御身なるぞ」
里見義通は叱責した。
「そなた、上総介殿の嫡子であるか」
「はい」
「噂に聞いた〈神童〉であるか。ほう、よい面相をしておるな」
玉隠英璵は笑いながら、じっと義豊の目を覗いた。立場上、多くの武将と面識がある彼にとって、この若者の瞳は恐ろしい程に澄み切って映って見えた。武家の猛々しさがなく、繊細さのみならず野心を秘めた狂気すら過ぎる輝きが揺らめいた。不思議な眼光だ。
「上総介殿。この子と語ってみたい」
玉隠は明瞭に告げた。
「しかし、御身は」
「急ぐ旅でもなし、戻るにしても舟ならば造作もないだろう。拙僧とて、せっかくの安房じゃて、よい機会と心得る」
「しかし、建長寺にご迷惑を掛けたとあっては、里見家として申し訳が立ち申さず」
「なんの、上総介殿に異存がなければ、ぜひとも」
「異存など、ござりませぬが……」
「里見の先代は〈房州太守源湯川公〉と呼ばれた英傑。つい今し方、思い出した」
「確かに、父をそう讃えた高僧がおられましたが」
「太郎殿にはその血が受け継がれておるのでは?見れば見るほど、不思議な相じゃ。非凡な者を導くことは、滅多なことではなき哉。これを務めとすることは一代の事業であることを叢林(鎌倉五山)で聞いたような気がする。これはよい機会じゃ」
「相解り申した。されば、早速に逗留の支度を」
義通は玉隠の宿坊を那古寺にと定めた。
「一夜だけのご迷惑ゆえ、何卒よしなに」
玉隠の言葉は、義通の当惑を見透かしたものであり、それほどの大事であることを自覚する高僧ゆえの気配りとも云えた。一夜の迷惑を押してまで留まった里見義豊という若者の魅力の謎は何か。その答えを、玉隠はじっくりと探すつもりだった。
鎌倉を震撼させる事件が起きた。
空然が雪下殿より墨衣を脱ぎ捨て、出奔したのである。もともと空然にとって、出家は体質に合わなかったのだ。後年、この空然が小弓公方・足利義明と変じ、関東を揺るがす風雲児と化す。
永正七年(1510)八月一〇日、里見勢は上総国に兵を差し向けた。これは単独の軍事行動ではない。上総国の大きな対立構造は、千葉氏執事・原氏と真里谷武田氏の間にある。里見勢はこの軍事行動を通じて、真里谷側に附いた。
この軍勢のなかに、里見太郎義豊の姿があった。遅ればせながらの初陣である。
「若殿は書物兵法に通じておられると存ずるが、血腥いこともよく知っておかれるとよい。家督を継ぐ者は、兵の痛みを知らねばなりませぬ。でなくば、家臣は附いて参りませぬぞ」
傍らに付き従うのは、叔父にあたる里見左衛門佐実堯である。近年久留里まで勢力を伸ばし、なおかつ内房一帯を掌握している実堯が傍にいてくれることを望んだのは、義通だった。
「儂は孫子も読んだから、別段重い甲冑を着込まずとも、戦さの采配はできるぞ」
面倒臭そうに義豊が呟いた。
「そのような口は、人の生き死にを目にしてからになさりませ」
毅然と実堯が口を差し挟んだ。
「兵は将棋の駒や碁石にあらず、血を流し、痛みを知る、一己の人なり」
実堯の歯に衣着せぬ申し様は、これまでの取り巻きと異なり苦痛であった。なんと小煩いことだろう。しかし、合戦が始まると、義豊の甘い考えは霧散した。はじめて目の当たりにした合戦は、綺麗事の通じるものではなかった。生きるために殺しあい、その矢面に立たされる兵たちの生々しい怒号や悲鳴が幾重にも響き渡った。
「よろしいか若殿。すぐれた将とは、味方の兵を損なうことなく、如何に多くの敵を屈するか、そのための地の利を生かした軍略を有します。孫子曰く、敵を知り、己を知らば、百戦危うからず。まずは敵を見定めることが肝要。敵の弱きをみて侮ることなかれ、強きをみて恐るることなかれ。若殿がまことに優れし将になることを、大殿も望んでおられますぞ」
しかし、義豊の考えは、別のところにあった。
合理的な戦さとは、敵を根切りにすることであり、そのために手を汚さぬものである。加勢に寄る者を利用し、欺くこと。すなわち調略の極意である。義豊は頭が良い。良すぎたと云ってもよい。机上の戦さを現実にすることは、不可能ではなかった。初陣の場でそういう思惟に至ることは、尋常ならざることである。
里見義豊が少しずつ変貌していったのは、この合戦が契機だった。これまで余人に向けなかった関心を、積極的に、若い在地豪族たちへ向けるようになったのである。
「これはこれで、よいことだな」
やがて義通は、義豊の名前を用いて政を始めた。肝心のところは後見が締め、在地豪族を巧みに用いるという、既成事実上の融和を試みたのである。
「上総介は隠居に候や」
斯様な風聞が安房国内に囁かれたが、義通は敢えて否定をしなかった。
大願篇
真里谷信勝が上総侵攻の手を緩めたのは、この年の暮れのことである。隠居中の父・信興の容態が悪化したことが原因だった。信興は房総武田氏の始祖・右馬助信長の孫であり、真里谷家を興した人物である。それゆえに人一倍苦労をしてきたことから、信勝も畏敬の念で父を仰いでいた。
「当主はそなたじゃ。老いぼれに気を配ることなかれ。儂はもう死んだものと思うがよい」
「父上」
「聞けば里見の家では、上総介の倅が〈一統〉などと大言壮語しているそうじゃ。いっそのこと矛先を安房に転じたら」
それは一理ある。
が。
「それは出来ますまい。背後を原式部少輔に突かれる恐れがございます。また、その主家である千葉介も我らを認めておりませぬ。むしろ里見と組まなければ、戦線を維持できない状況でございます」
「まことに惜しいものよな。里見の領土を併呑すれば、我らの基盤は倍にもなろうて」
情勢が、それを許さなかった。
「まずは原を討つ。原さえ倒せば、千葉介は自ずと屈することができます」
信勝の言葉にじっと考えていた信興は
「乱波を用いよ」
「千葉介と原を切り離す、ということで?」
「支援なき戦いほど、疲弊するものはないでのう」
「ならば、さっそくに」
「原を倒したら、里見を討つということも」
「考えておきます」
真里谷信興は、繰り返し、里見を討つ絶好の好機であると呟いた。それを知りながら動けぬ信勝は、ただただ繰り言を聞くしかなかった。
真里谷信興は、翌永正八年に没した。
このような上総国の諍いとは余所に、里見義通は義豊の抱く真意が読めず、むしろ苛立ちさえ覚えていた。腹の底を明かさぬ嫡男は、分際に逆らい、〈一統〉を口にした。
一家を頂点に従う臣下は二君に仕えぬ美徳など、当時は幻想である。江戸時代に入り、泰平のなかで朱子学から根付いたその考えは、一世紀も以前のこの時代には無縁なのである。忠義よりも己の損得、益する代表のもとで栄えること、それが戦国だった。一統大名の思想が理想であるというのは、そういうことだった。そんな夢よりも、在地をつなぎ止めることこそ、当時の国を統べる者の義務である。その下地を理解しない義豊の空想理論は、里見家の命運さえ危うくする。新し過ぎる思想といってよい。その新しさに、玉隠英璵のような知識階級が義豊を快く思ってくれるのは、よい。が、せいぜいそこまでだ。
古河公方家にも関東管領家にも為せぬ〈一統〉を、安房の豪族が先んじてなんとしようか。分際とは、つまりはそういうことだった。里見家は〈一統〉の衆ではない。里見義通はそう思っている。
「大殿あっての里見家なれば、ここはひとつ」
正木通綱は一計を案じ、具申した。義通の意向をよくよく承知している者たちを選り、合議制を以て是非を図る。この決定を義通が領内に触れれば、よもや義豊も好きが適わぬこととなる。
つまりはこうだ。
義通は正式に隠居を宣言するが、家督継承者である義豊の脇には〈奉行衆〉を置き、独断を許すことなく政務を執行する。その奉行衆の筆頭には、在地の衆に目利きが適い判断に聡い里見実堯を据える。そうすることで、義豊に寄る者たちを独断の場から遠ざけるというのである。
「何事もよきにはからえ」
義通は大きく息を吐いた。
このことを、正木通綱は義豊に伝えた。義豊は動じることなく
「ああ、いいよ。父上よりも儂が長く生きればいいのだ。ちょっとの辛抱だよ」
「殿……」
「冗談だ」
義豊は表情も変えずに、正木通綱の言葉に頷いた。
「ただし」
義豊は義通の白浜城隠居を求め、稲村城の改修を正木通綱に語った。
「隠居は御承知頂くとして、改修とは?」
正木通綱の問いは自然なものだ。これに対し、里見義豊は涼しい表情で呟いた。
「湾からの水利を稲村城まで引っ張るのよ」
「城から湾までは、およそ一里足らず。それほどの運河を掘削することなど……」
「平久里川を用いる。支流の滝川は城下まで至るゆえ、これを開削することで水利を保つこととしたい」
正木通綱は言葉を失った。このことは、理に適う施工である。ただ、用いる意図だけが諮りかねた。
「便利だからだよ」
それきり、義豊はそのことを語らなかった。
ともあれ奉行衆の設置は理解されたのだ。奉行衆の筆頭となる里見実堯は稲村の北向きにあたる宮本城に入り、頻繁に稲村城へ通った。正木通綱も稲村の北東にあたる山之城に入った。海路で白浜へ、陸路で稲村へ駆けつけ易い立地にある。里見の首脳陣が集約されたと、傍目には映る。しかし、内情はどこかドロドロとしていた。
新館篇
小弓公方が基盤を安定させ、房総に根を下ろしたことは、果たして関東にどのような影響を及ぼしただろうか。少なくとも、古河公方にとっては、新たな脅威として受け止められたことは間違いない。それらに与する豪族たちもまた、双方何れかの陣営に寄ることで対立し、新たな戦乱の兆しは現実のものとなった。すでに小田原には、新興勢力である伊勢氏が台頭していた。その伊勢氏と睨み合うのが上杉氏である。その上杉の中でも古河公方に接近する勢力があり、古河公方家は伊勢氏と結んでいる。奇妙な三竦み状態で睨み合うのが、関東の対立構造だった。
小弓公方の誕生は政局を左右した。
永正一六年(1519)八月一五日、伊勢宗瑞が韮山城で没した。宗瑞の跡を継いだ新九郎氏綱は、父の教えをそっくり受け継ぎ、着々と力をつけていた。古河公方・足利高基は伊勢氏綱に協調しつつも、現実として依存する姿勢を示していた。自然、小弓公方・足利義明は、古河公方の背後に見え隠れする伊勢氏綱と睨み合う関係となる。
久留里城には里見実堯の一族が、最前線を担っていた。真理谷氏と諍っていた頃に切り取ったこの城は、再三の返還要求に屈することなく、事実上、実堯が支配していた。宮本城詰めも多く、とかく留守居がちな実堯を、家臣たちは十分に支えた。
一三歳になる嫡男は元服し、いまは権七郎義堯を名乗っていた。物事を根気よく洞察し、人の知恵と力を上手に用いる父の姿に、義堯は絶大な信頼と憧れを抱いていた。まだ己の武芸に磨きをかけることで精一杯の若者は、のちに彼自身に課せられる里見氏の重責というものをまだ知らない。
久留里城は実堯のもと、里見家大殿である義通への揺るぎない忠孝を支える一致団結を固めていた。夷隅郡西畑地方に新田開墾を達成し、そこを笛倉村と称したのも、偏に兵糧を蓄えるためである。最前線に育った義堯は、生きていくためには実を伴うことを優先とする教えを尊重していた。学問も習ったが、それは幾許かの教養を支える程度に留めていたのである。
在地の豪族を生かし、生かされること。
この調和は、これまでの里見家で必要な〈協調〉そのものだった。
一統と協調。
義豊と義堯という従兄弟同士は、この時点でおよそ交わることのない思想の隔たりを身につけていたのであった。
大永元年(1521)八月末、里見義通は単身、ふらりと稲村城へ赴いた。運河の改修も終わり、滝川へ設けられた船着場には、鏡ヶ浦から上がってきた六挺櫓舟が二艘係留されている。水軍基地とまではいかないが、海と直結させる考えは、義豊ならではと云ってもよい。突然の義通来訪に、義豊は戸惑った。しかし無下に追い返すこともできない。
「人払いを」
面会早々、義通の言葉に、義豊は障子を開け拡げた。
「普通は、閉めるだろう?」
「まだ閉め切るには暑い時期です。それに聞き耳立てる者がいるかも知れません。明け透けにすれば誰も近寄りません」
義通は眉を顰めながらも、一応の理屈に得心した。
「で、今日は?」
「うむ。我が死後のことを聞いておきたくてのう」
「お戯れを」
義通は〈一統〉の志について訊ねた。そもそも〈一統〉とは、文字通り、一つにまとめて治めることと意味している。義豊のいう〈一統〉には、誰が、という理念が籠められていた。それを踏まえた上で、安房のすべてを生殺与奪できる絶対者となるための理念を言葉にしたものが〈一統〉だ。
「父上でも御存知の筈。古代中華において、秦も唐も、統一王朝が滅亡したあとは群雄割拠の世なり。それを平らかにしたもの統一王朝。日ノ本も今がそのとき、幕府も関東公方も、世を束ねる志はなし。我らが〈一統〉の形を手本として示すことは、世のためにござります」
ひとつの理想としては、それなりに素晴らしい考えだ。しかし、いまの里見家では無理なことである。それだけではない、なぜ〈一統〉を急く必要があるというのだ。そのことを、じっくりと聴きたかった。
「形骸からお聞きあれ」
まずは大きな在地豪族である正木通綱から領地を召し上げ、新たに同じ場所を里見家からの恩賞地として授け取らすのだと、義豊は呟いた。
「この土地から里見家へ年貢を入れてもらいます。その年貢より、正木家に扶持として年貢の六割を授けます。正木家が従えば、ゆくゆくは他の在地も従いましょう」
「なぜ、正木か?」
「父上の意を汲む者ゆえにございます。それが、奉行衆にも自ずと納得させるきっかけとなりましょう」
考えたものだと、義通は腕組みをした。確かに、正木通綱ほどの者が従えば、それに倣う者もゆくゆくは現れるだろう。
「しかし、都合のいい解釈である」
「ゆえに父上にも、〈一統〉の御理解を頂きたいのです」
「そなた、なにゆえ〈一統〉などに、こだわるのか?」
「まだ京都幕府でも成し遂げぬことだからです」
「為せぬことには、理由がある」
「その理由も、単純なことではないですか」
つまりと、義豊は言葉を継いだ。
「応仁の乱よりこの方、将軍家の意向とて定まらぬ由。古河も小弓も、坂東の足利家とて同様。儂はこの秩序を真っ先に構築し、やがては坂東公方家にも定着させたいのです。そうすることで、里見家は関東管領職を凌ぐ副帥となることでしょう」
「理想としては正しいが、余人が望むか否かは別物である」
「成れば考えも変わります」
ふと、義通は思った。
とかく玉隠英璵が義豊に気を留めるのは、一統思想と関東静謐の理念が一致するからではあるまいか。現実論ではなく、宗論であり机上論、それと考えを一にする同志として受け止められたからではないか。
「人というものはな、まず食っていくことから始まる。世の中が静謐を望めば、流れは泰平へと向くだろう。されど、今はその儀にあらず。無理に流れを変えることは、〈一統〉とは程遠い」
義通は毅然と義豊を非難した。いや、義豊の説く〈一統〉という理屈だけは理解を示せるが、それだけで成り立たぬのが、世の中なのだ。
賢使君篇
「父上は、里見家こそ安房の覇者であるべきと思いませぬか?」
「そなたの申す、覇者とはなにか?」
「人を支配すること、出来ることです」
「傅くことだけが、覇者とは思わぬ」
義豊の考えは単純だ。明瞭ゆえ判りやすい。それだけに、人の世では理想論そのものであり、生きていく者にとっては迷惑千万でしかない思想だと、義通は思った。
「内政、外交、合戦、一手に里見が掌握し沙汰することこそ正しい道筋です。いまの里見は、合戦となれば在地豪族に助けを求める有様。これではおかしいと、思うのです」
「それで、運河か?」
稲村城に直結する港湾は、画期的なものだ。すべての水軍を里見が握り、在地から引き剥がすことになれば、やがては一手に掌握することにもなろう。
「海に暮らす者には、海の暮らしがある。それが在地の衆である」
「その機嫌などに任せては、安房の覇者になれませぬ」
義豊とは、頭がよいのだろう。よすぎるが故に、義実以来のゆるやかな結束が我慢できないのだ。さりとて義豊の志すことを実践するならば、もう少し後の世に託すのがよい。里見あっての当家であるという自覚が在地に根付いてこその〈一統〉だ。もしくは世上が乱れきり、力で屈服するしかない状況にのみ、発揮される考えである。
が、残念ながら安房は表向き、緩やかな関係を構築し互いに支えていける世上である。むしろ〈一統〉の無理強いこそ、徒な戦乱となるだろう。それで敗れもしたら、すべてを失う。後の世の物笑いの種だ。
「のう、太郎よ」
義通はぽつりと呟いた。
「我らが里見の家でなく、名もない民百姓に生まれていたなら、こんな想いはしなくて済んだかもなあ。童のおりには、一緒の布団にくるまったこともあった。あの頃は素直で可愛かったなあ」
立ち上がろうとした義通は、突如、小さく呻いて、吐血した。
「父上!」
義豊は驚愕して助け起こし、大声で人を呼んだ。動かすことが危険であると看立てられ、義通は稲村城の一室に横となった。慌てて駆けつける奉行衆のなかには
「よもや大殿を」
と訝しがる者もいた。
義通が病であることは、誰もが初耳である。いや、気取られないよう、必死に堪えていたのかも知れない。他国に知られたら、里見は窮地に立たされる。しかし、発覚したからには、もはやこれからのことが肝要であった。
「殿の責務は重うござる。が、奉行衆も在地も、皆が里見を支えましょう」
里見実堯の声は優しかった。しかし、改革は暫く留まるべしと、実堯は釘を刺した。変革する機は、混乱の中から生まれることはない。そのくらいの分別は、義豊にもあった。しかし、〈一統〉から遠ざかるもどかしさに、義豊の心は沈んだ。
小康状態となった義通は、やがて輿に揺られて白浜城へと帰っていった。義豊は嫡男の又三郎をこれに同行させた。
「おじいさまの話し相手となるがよい」
その云いつけに従い、年若い又三郎は発った。
そして、義豊は、こののち早晩に一手を担う家督のことを思案した。在地を一手に掌握する〈一統〉、その理想に物事が運ばぬなら、なんとしたらよいものか。祖父や父のように、在地の助けを借りながら国を富ませ拡大し、来るべき新しい世代に想いを託すというのか。
しかし、義豊は頭がよすぎた。ゆえに〈すべて〉が凡庸に映る。志を託すに足りない。その答えを導き出すことは不可能だった。縋る想いをぶつけた先は、鎌倉の玉隠英璵である。
「御坊、太郎は未熟に候。せめて法号と雅号をして導きたまえ」
という書状を差し出した真意は、理想と現実の違いに苦悩するが故であった。玉隠はそれを見透かしたに違いない。
「房州の賢使君」
そう持ち上げた申し様で返書をしたためた玉隠英璵の真意は
「いかほどの畏れやある」
という叱咤が籠められていた。
賢使君。
それは古代中華で刺史を敬称する意味であり、また、国守の唐名ともされる。即ち古河公方の代官としての安房国の国主、ということだ。これに賢という冠を載せた玉隠は、優れた古河公方副帥として、義豊を称しているのである。〈一統〉の思想が古河公方のそれに通じる以上、それを志す者が他にない今となっては、玉隠にとっては、義豊こそ賢使君と呼ぶに足る人物だった。
折れるな。初心、忘れるべからず。
玉隠英璵からの無言の声援が、この呼称に含まれていたのではあるまいか。
義豊の望んだ法号と雅号について、玉隠はこのように応えた。
法号〈長義〉。
雅号〈高巌〉。
玉隠は太田道灌をよく識っていた。道灌は教養に富み、それを身につけたうえで、内政外交合戦に生かすことで民衆に支持された。足軽を育てて兵となし、勝ち方をよく知る将であった。しかし、そういう将は、道灌が暗殺された後は世に登場していない。このことを、玉隠英璵は長く憂いていた。
義豊と道灌の唯一の共通点。
それは、孔子や孟子の学問に励み、孫子と呉子の兵法書を学び、和歌・吟詠にも通じ、古今の多くの人の書を集めて文字もよくする、ということだった。それをして、文武を兼ね備えたと断じるのは早計というものだが、この乱れ汚れた時代にやっと出会った道灌と同じ人種として、玉隠は義豊のことを、盲目的なまでに高く評価していたのかも知れない。
義豊は揺らぐ気持を押し留め、こののちも〈一統〉を為す機を秘かに伺う意思を固めた。
これより三年後、玉隠英璵は鎌倉にて入滅する。
大永四年(一五二四)、里見義通はこの世を去った。里見義豊の時代が、名実ともに始まろうとしていた。
作者について:里見氏を描く歴史小説家・夢酔藤山さんの紹介記事では、『里見太平記』や房州日日新聞の連載から続く創作活動をご紹介しています。
原稿提供:夢酔藤山さん
夢酔藤山さんの公式発信
原稿・参考資料(2026年7月確認)
- 夢酔藤山さん提供『賢使君―里見義豊―』全5篇
- 館山市|国指定史跡 里見氏城跡 稲村城跡
- 館山市|鶴谷八幡神社本殿
- 君津市|久留里城
- 館山市立博物館|さとみ物語 第2章 里見氏の内乱
- 夢酔藤山|プロフィール(2026)